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ナポリを見て死ね! [語学力は身を助ける]

ナポリを見て死ね。

そんなセリフどこかで聞いたことがありますよね。 
誰が言ったのか知らないけれど、でもその言葉の様に、
ナポリは一見の価値があるのでしょうか? 
私はすでに一度は見ています。 
でも、まだまだ死ぬ気にはならない。
それが偽らざる心境。 

ナポリでの滞在は観光旅行のその一部で、
その滞在時間は、多分一瞬みたいなものだった。 
あちこち見て回った訳でもなく、
だた観光コースのほんの一部でしかなかったというのが事実。 
あまり心に残る印象はありませんでしたね。

でも、ナポリの港から船に乗ってカプリ島に行ったことは、
記憶の中にしっかりと生きています。 
何故かというと、一つにはその船上で、
ミネラルウォーターを買ったことが一つの大きな原因。

私は試にイタリア語でやってみたのです。
イタリア人の売店員の男性に
「Scusi sinore, posso avere un aqua minerale non gassata,
per favore.」とか言いました。
それが今でも、記憶に鮮明に残っているのです。 
勿論、そのセリフは相手に誤解無く伝わりました。 

その時初めて知ったのですが、
イタリアでは店員にその代金を渡すのではなく、
他にお金を受取る人がいまして、
その方に支払いをして、それから商品を受け取りました。 

日本ではあり得ないそんな現地でのやり方に驚きましたね。

誰かにそのやり方の文化について
説明を受けた訳でもありませんが、私の推測の域を出ませんが、
イタリアでは、それだけ雇われ人は
信用されていないのではないかと思いましたね。 

話は飛びますが、カプリ島の土産物の売店で、
小銭のコインが欲しくて、何かを買った記憶があります。 
それを買うのが本来の目的ではなかったので、
その時何を買ったのか記憶にはありませんが、
鮮明に覚えていることは、1ユーロの品物を買うのに、
多分10ユーロ札か何かを出したのだったと思います。 

日本では、問題なく嫌と言われずすぐに9ユーロのおつりが
帰ってくるのが当たり前だという感覚と認識でしたので。 
でも、その時最初に言われたのは、
多分丁度の小銭を出せとかいう趣旨だったと思います。 
でも、
その品物を買うのが目的ではなく、
小銭のユーロコインを入手するのが目的でしたので、
1ユーロコインは持ってないので、
10ユーロでお釣りをくれという問答をしたのだったと思います。 

で、無理やりお釣りを貰い、そのお釣りを数えてみると、
何とその店主はお釣り自体をごまかして渡しました。 
私は直ぐに、間違っていると抗議しました。 

その店の店主は見るからに紳士的でしたが、
なんとそんな人が、私が東洋から来た観光客だとみると、
ごまかしを意図的にしたのですね。 

相手は私の抗議を認め、
結局はだましのコインを正規の1ユーロに変えてくれましたが、
普通ならば、日本人なら1ユーロ位の事なら
英語の通じないイタリア人にそこまで言わないのではと想像しました。 
相手のやることもせこいなら、こっちの言う話もとてもせこい。 

でも、私は騙されたことに腹が立ち
泣き寝入りをしたくなかっただけなのです。 
そういう事を、金額が小さなことだからと言って黙認すると、
あとあと日本の観光客に
その悪い前例で類を及ぼす可能性の事を考えると、
勇気を出して抗議せずにいられませんでした。

多分その例のように、世の中はそんなものなのかも知れません。 
ちょっとした些細なことが後々に大きな類を及ぼしかねない。 

人は、徐々に大胆になるものですね。 
最初は問題にもならない些細なことが、
それがのちには高じて、大変な事になるとか。

現実に貧乏な私でも1ユーロ自体は別にどうでも良い金額で、
それ自体は別にどうなろうが、問題ではないのです。 
でも、お釣りを意図的に誤魔化されたという事には、
どうしても引き下がれなかったのです。 
私は、多分下手なイタリア語で言ったのだと思います。
でもその時のセリフが何だったのか記憶にはありません。 
ひょっとしたら英語でも抗議したかも知れません。 

結局、こちらの言う趣旨が伝わり、
相手のその年のしまった白髪の老人はスッと反論もせず
1ユーロを返してくれた記憶があります。 
だから、それ以上の問題にはしませんでした。

理不尽な事の嫌いな私が、その理不尽に抗議し、
結果を得たという事で十分納得いけましたから。 
それと、可能ならば、出来るだけ外国では
トラブルを避けたかったから、そこは穏便に済ませただけのこと。

自分の体内には理不尽を拒絶する
熱い血潮が流れていることを実感しましたね。 

主張すべきことは、それなりにその必要の程度に留めても
しかと抗議すべきは抗議するという精神。 
そんな精神を自分で認識しましたね。

その種の出来事は他でも思い出すことがあります。 
理不尽な事は一番嫌なこと。 
例えばもう随分前の事だけど、エジプトのカイロに着いて、
入国の際に、日本人旅行者の団体は皆一様に、
不本意ながらも不必要な高いビザ代を払わされたことがある。 

他の他国からの個人旅行者は、
いちいち観察していた訳ではないけど、
ビザの印紙を売る窓口で、
正規の費用を払って入国手続きを取っていた筈。 

ところが、我々日本人の団体は、
現地の旅行者の関係者からその印紙のようなものを買い、
それで入国した。 

私は、これはおかしいなと思い、
その印紙代を払う人に質問した。 
彼の返事は彼が個人的に売るその印紙代は
「彼の値段」だとのこと。 

つまり、平たく言えば、彼はあえて中に入り、
実際のコストよりも高い値段で旅行者に売り、
その利ザヤを稼いでいたという事になる。 
我々、現地の事情を知らない者を相手に、
そんなことをする。 

それが旅行者に関係ない人であれば、
正論で通すつもりが、
それから先その人のお世話になるのかも知れない
という事が脳裏をかすめ、
言いたいことを半分くらいしか言えず、
後は飲み込んでしまった。

金額の多寡ではない。 
それがまともな事かそうでないかが重要視か無視の判断基準。







松岡洋右の語学力 [語学力は身を助ける]

かって松岡洋右外相は、国際連盟総会で「十字架演説」を行った。 
1932/12/08のことである。
松岡は満州事変後、国際連盟の議場にて、
日本が満州事変に立ち入った経緯を説明する中で、
中国によって日本の権益がどれほど侵害されたかという歴史事実を列挙し、
「日本はむしろ被害者だ」と断言して見せた。 
このように正々堂々と国の立場を説明できる政治家が戦後ほとんどいなくなった。 
だから誤った「加害者意識」というものが国民の間に定着してしまったのだろう。

一頃よく見かけた謝罪外交はあまりにも愚かだ。 
日本人特有の「謝ればすべて水に流せる」という考え方は、
決して中国に通用しない。 
中国には「水に流す」という思想はなく、
宿敵を許そうという心のゆとりもない。 
九十九代にも渡って仇討ちを逃げようとするのが中国人。 
彼等には忖度の余地はない。

日本人の敗戦のトラウマが、
自虐的な日本人を大量に繁殖させてきた。
政府が反省と謝罪のパーフォーマンスを繰り返すのもそのためだった。

松岡外相の国際連盟脱退の演説は「原稿なし」で一時間二十分に渡った。

http://www.c20.jp/1932/12jujik.html

彼の「十字架演説」に関する「引用」は上記のURLを参照。 
その時の印象が時空を超えてこちらに伝わってくるようだ。 
彼のような人材を輩出できれば、日本の国際的地位も高くなる。 
日本は単にMade in Japanの製品をつくるだけで満足することなく、
それ以外に、国際的に影響力を与え得る松岡外相のような人材を育てるべきだ。 
天然資源のない日本にある唯一の資源は、今の所、人材の資源しかない。 
メタン・ハイドレートもまだ先のことだ。 
国はその現実をしっかり認識し、
上手く人的資源を掘り当てるようにすべきだ。 
人材のない国に未来はない。 
将来の国際政治は、従来のアメリカ主導型に替わって、
日本が旗振りし、世界を動かしてもいい。 
国力を高揚し、人材を揃えば、それもまんざら夢でもあるまい。



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